影山

社員が入りました。

私がマツダ中販に毎週通ったことは前回お話ししました。それ以外の仕事を定期的なものにするために,マツダ中販での仕事を他の人にお願いできないだろうかと考え,一人若手社員に入ってもらうことにしました。以前から交友のあった若者で,上手にストライプを貼れるようになり,頼もしいなあと思っていた矢先,「この仕事辞めさせてください」の一言が。 「へっ,なんで?」と思って尋ねてみると,一日中,一人で黙々とストライプを貼っていると「ウワーッ」と叫びたくなるんだそうです。確かに一人の作業ですし,根を詰めなければなりません。もう限界,気が狂いそうになるとのことで,退職なさいました。

その後,今度はご自分から売り込んでこられた方がいらっしゃいました。営業として雇ってもらいたいという希望です。私より年長で,しかも家族もおられましたので,こちらが二の足を踏んでいましたが,基本給は安くして歩合制で,と先方がおっしゃるもので,営業マンとして働いていただくことになりました。が,それまでの業界とは全く違う世界でしたので思うように業績が上がらず,やはりお辞めになりました。でも置き土産ともいえる仕事を最後に取ってくださいました。それが市川市のゴミ収集車のマーキングです。市川市が新しいデザインを採用するという新聞記事を見て営業に行っていただいたのですが,話が進んでうちがその仕事を行えることになったのです。何十台ものパッカー車を塗装からマーキングまですべて任せていただけることになりました。塗装は知り合いの鈑金工場にお願いして,私は市川と酒々井をパッカー車を運転して何往復もしたことを懐かしく思い出します。

市川市のパッカー車

この市川市の仕事のころから「切り文字」が「書き文字」に代わって主流を占めるようになっていきました。私もマツダ中販の仕事でストライプに加えて文字を貼っていましたが,はじめのうちは自分でカッターを使って一枚ずつカットする,いわゆるハンドカットでした。でも同じものを何枚も作るようになるとそれではとても間に合わず,世間ではコンピューターカットの機械が出回るようになっていました。市川市の文字も,すでにカッティングマシンを導入していたトリム・ラインジャパンに依頼して作ってもらったものでした。キャラクターは印刷しましたが,当時は今のようなプリンターがなかったのでかなり高価なものだったことを覚えています。プリンターは無理だけどカッティングマシンは欲しい,そう思ったものです。高くて手が出ませんでしたが・・・。

ほぼ時を同じくして,ある大型トレーラーの仕事が取れることになり,それを機に施工のできる社員がやはり必要になり,小学生のころからよく知っていた若者を他の会社から引き抜いてうちで働いてもらうことにしました。この青年は今でも我が社で働いてくれています。後から入った施工マンは皆,彼がトレーニングしてくれました。今では主にデザインの仕事を担ってくれています。IT関係にも強くて,我が社のネットワークやサーバーはすべて彼が管理してくれています。素晴らしい人材が長くとどまってくれているのはありがたいことです。